キズモノのシェフ 〜フレンチからファミレスへ、再起のレシピ〜

キズモノのシェフ 〜フレンチからファミレスへ、再起のレシピ〜

last updateآخر تحديث : 2026-06-18
بواسطة:  八街ヒサシمستمر
لغة: Japanese
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その傷は、私から美しい人生を奪っ た——。 フレンチレストランのシェフだった紗希は、 夫に店を奪われ、離婚とともにすべてを失う。 行き場をなくした彼女を拾ったのは、 大手ファミレスチェーンを率いる若きCEO。 商品開発部に配属された紗希は、 一流フレンチで培った技術と、 新たに学ぶ“大衆料理”の現実を武器に、 次々とヒット商品を生み出していく。 傷だらけになった人生でも、 料理があれば、もう一度立ち上がれる。 これは、キズモノのシェフが フレンチからファミレスへと舞台を移し、 再起の一皿を生み出す物語。

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الفصل الأول

その店の名は“ラ・ベラ・ヴィータ”

凶刃は私の体に傷を刻んだ。

それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。

私に残されたのは、料理だけだった。

照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。

テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。

テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。

本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。

海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。

「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」

海斗がにっこりと笑う。

それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。

「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」

「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」

アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。

アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。

サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。

「ほう、これは……」

パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。

作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。

えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。

海道の口元が静かに綻ぶ。

これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。

「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」

まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。

海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。

その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。

「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」

二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。

弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。

「あの、シェフ、本当にメインディッシュはこれでいいんですか?」

「いいのよ、むしろこれしかないと思うわ」

「でも、オーナーの指示は……」

「あの人のオーダーは“契約が取れるような料理を出せ”だったはずよ、だからこれでいいの」

「これ持っていったら、オーナーに怒られませんかね」

「大丈夫よ、これは私が直接持って行くから」

咲希はコック服を軽く払って身だしなみを整えた。

彼女には、首の中程から服の中に向かって伸びる、赤くひきつれた傷跡がある。

それが見えないように、襟元は特に丁寧にボタンを止め直す。

客席では和やかに食事が進み、いよいよメインディッシュの登場を待つばかりとなった。

シェフである咲希自らがメインディッシュを運んでくると、彼女の顔を見た海斗が無言でわずかに眉を顰めた。

そして咲希がメインディッシュの皿を静かにテーブルに置いた瞬間、彼は再び眉を顰めた。

今度は無言ではいられなかった。

「これがメインディッシュだと?」

皿の上にあったのは豆と野菜のスープ煮——リボッリータだ。

イタリアの、それも家庭料理であり、高級なフレンチコースのメインディッシュとしてはおよそにつかわしくない。

だが、皿の中を見た海道だけは、迷うことなくスプーンを取った。

ひと匙すくい、迷うことなく口にする。

「これは……本物のトスカーナの味だ」

海道は視線を天井に向け、ぼんやりと過去を思い出している様子だった。

「あの頃、私は貧乏でね、イタリアの安宿に部屋を借りて、食事はいつも宿の女将がわけてくれるリボッリータで済ませてばかりだった、だが……あの頃の私は今より若く、野心に溢れ、何も恐れを知らぬ男だったよ」

しばらく天井を見つめた後で、海道は自嘲気味に笑った。

「いつから私は、契約一つに迷うような臆病者になってしまったんだろうな」

咲希がすかさずワインのボトルを差し出す。

「よろしければ、イタリアンワインもありますよ」

「そう、これこれ、イタリアではワインは水よりも安いんだよ、貧乏な頃はワインで腹を膨らまして空腹を凌ぐような無茶もしたもんさ」

渋みの強いワインを一口飲んだ後、海道は「うん」と力強く頷いた。

どうやら彼は若い頃の無謀だが情熱的だった自分を思い出したらしい。

「畠山さん、君と契約しよう、後で契約書を届けてくれたまえ」

その後の食事はフレンチのコースに戻り、終始穏やかに進んだ。

帰り際、握手を交わしながら海道は海斗に言った。

「いやいや、こんな美味い店も、こんな綺麗な奥さんまで手にしているなんて、あなたの人生はまさに“ラ・ベラ・ヴィータ”ですな!」

向坂淳美は愛人に過ぎないのだけれど、海斗の腕に自分の体を絡ませて、この言葉を否定しなかった。

海斗も特に何も言わず、ただ曖昧に微笑んだだけだった。

咲希はその様子を厨房の入り口からぼんやりと眺めていた。

一体、私たち夫婦はいつから壊れてしまったんだろうか——

咲希は店内の暖かな光景に背中を向けて、厨房へと戻っていった。

この店のシェフである咲希には、まだ明日の仕込みという仕事がある。

咲希は調理場の隅にある小さな椅子に座って予約帳を開き、明日のお客様を確かめ始めた。

「副島様は血圧が高かったはず、薄味だけどインパクトのある料理が必要ね」

ラ・ベラ・ヴィータは1日五組限定の完全予約制だ。

一人一人の体調を気遣い、時に思い出に寄り添い、その人のためだけの特別な一皿を作る調理スタイルでは、1日に五組が限界なのである。

それでもSNSや雑誌などで紹介されることも多く、ラ・ベラ・ヴィータは“一度は行ってみたい高級リストランテ”として知名度は高い。

だから普通のレストランのように従業員を多く雇って客を入れれば、もっと稼げるのではないかと、親切にアドバイスしてくれる人も多い。

だが咲希は、自分の調理スタイルを変えるつもりはなかった。

従業員たちも帰った後、静まり返った調理場には業務用冷蔵庫のモーター音が静かに響いている。

その音は並ベラれた皿を、そして吊るされた調理器具に微かに反響して、床流しが終わったばかりのコンクリートの床に染み込んでゆくようだった。

私たち夫婦はもう壊れてしまった、だけど私にはまだ、料理がある——

咲希はレシピ帳を手に取り、そのページをめくってゆく。

パラリ、パラリと紙の擦れる音が調理場に響く。

その穏やかな空気を汚すかのように、コツ、コツ、コツと乱暴な足音が聞こえた。

「咲希」

彼女が振り向くと、調理場の入り口にもたれた夫の姿があった。

彼だるそうな腕組みと、睥睨するように顎をあげた眼差しで、不機嫌さの全てを全身で表そうとしているみたいだった。

その声音さえも不機嫌に満ち満ちて。

彼は咲希に向かって吐き捨てるように言った。

「あの話、考えてみたか?」

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その店の名は“ラ・ベラ・ヴィータ”
凶刃は私の体に傷を刻んだ。それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。私に残されたのは、料理だけだった。照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」海斗がにっこりと笑う。それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。「ほう、これは……」パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。海道の口元が静かに綻ぶ。これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。「あの、シェフ、本
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この店だけが私の存在証明
微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。「考えてみたわ」床を叩いていた音がふいに止まる。咲希はさらに静かな声で続けた。「離婚には応じる」海斗の顔に喜色が浮かんだ。だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。「だけど、この店は渡さない」海斗の表情が一気に落胆に変わる。「そんなことを、まだ言うのか」「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」「咲希、よく聞け……」「入らないで!」厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」咲希は鼻先で笑って答えない。今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」「それがあなたに何の関係があるというのかしら」「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」「大きくするつもりはないわ」「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。そこには古い傷痕がある。首元を起点に、胸を通って脇腹まで
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暖かい厨房
まさか、こんなに苦戦するとはーー咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。——それでもこの結果か。咲希はスマホを置いて立ち上がった。開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。最初に出勤してきたのは村上だった。彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。「先生、大丈夫ですか」この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。だが、彼らは若くて後ろ盾もない。せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」「カルパッチョですか?」「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」「刺身ですか、フレンチなのに」「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」「また……オーナーに怒られますよ」「そうね、怒られるでしょうね」村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。彼の手元は繊細ではないが誠実だ。ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。次に出勤してきたのはギャルソンの時下。彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。「白身魚ですか、となると白ですね」咲希は頷く。「甘口のものを中心に準
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